★啓発報告★ 10月10日の講演会・前半
尾崎ミオさんのお話の要約です。
(文責・田中由佳)

自己紹介
10年ぐらい前に、東京都自閉症協会に、高機能自閉症アスペルガー部会を立ち上げ、ASN(アダルトスペクトラムネットワーク)という成人当事者の会もつくりました。
アスペルガー部会の運営スタッフの半分は診断済みの当事者で、一緒に話し合いながら運営しています。
当事者と、学校のことを話していると、当時のことがシェアできて、つらさやしんどさの見当がついてきたり、原因がなんとなく分かってきました。
仕事は医療福祉系の編集ライターをしています。
わたしは不登校だったんですが、勉強ができなかったんです。
言葉はわるいけれども、関西に住んでいた子どものころ、特に算数についていけず、いまでいう特別支援教室みたいなところにかよっていたこともあります。
数の概念が分からない。計算ができない。板書ができない。
中学生になると不登校気味になり、登校できても大半は非常階段で過ごしていました。
ただ、わたしは、本を読むのが異常に早いんです。
理解はできないが大量のデータをインプットできる。じわじわ分かる。
お医者さんの代わりに整理しわかりやすく書くことができる。
それが今の医療系のライターという仕事にとても向いています。
でも勉強はできない(笑)。
そうした私自身の特性や経験もおりまぜながら、今日は話していきたいと思います。
学校が嫌いな子どもたちは、どんな子どもたちなのか。
なぜ学校が嫌いになってしまうのか。
そのうえで、先生や親や地域は、どんなことができるのか。
不登校と発達障害
まずおさえておきたいのは、不登校の数です。
少子化にかかわらず増えています。
中学生ならクラスに1人はいる計算です。
わたしの周りには発達障害の方たちがたくさんいまして、数年前、不登校と発達障害の調査をおこないました。
不登校・発達障害当事者(家族)への調査では、両方をあわせもつ方が4割いました。
また、不登校を支援する民間療育機関(フリースクールやサポート校)に対する調査では、59機関中、57機関から、「発達障害がある、あるいは疑いがある子どもがいる」という回答を得ました。
不登校になってしまう子の中には、発達障害の子が多く含まれているということが分かります。
でも、大空小学校では、(映画をまだご覧になっていない方もいらっしゃると思いますが、)そうした(発達障害のある)子どもたちを、受け入れているんですね。
ただ、ふつうの学校では、むずかしい。
それは、なぜなのか。
文部科学省のある調査では、学校が苦手な子のそのきっかけは、
「不安・情緒的な混乱」や「無気力(成功体験が少ない)」、「友人関係、家族関係」などが多いとされています。
では、発達障害の子の場合はどうでしょうか。
発達障害の生物学的な特性
当事者たちでいろいろ話してきて、発達障害のたいへんなところは、おもにつぎの3つと考えています。
1)感覚機能の特殊性
2)自律神経系の脆弱性
3)情動と認知
発達障害というと、社会性とかコミュニケーションというけれども、それ以前に感覚や認知の特性があり、生物学的に不利益なんだと思っています。
ある当事者は、「感覚過敏があると、いつも渋谷の交差点の真ん中にいるような状態。
騒音の中で必要な音を聴き分けなければならず、コミュニケーションて言われたってそれ以前の状態なんだ」といっていました。
その方は、静かな部屋で1対1で話せば、きちんと話せる方なんです。
わたしは給食が苦手で、ある学校では完食するまで食べさせるやりかただったんですけれど、わたしが転校するので開いてくれたわたしのためのお別れの会でも、給食の残りを食べていた、という経験があります。
給食の苦手な子がいる。保健室なら少し食べられる。
ある先生は、教室で食べられることを目標にする個別支援計画を立てたそうです。
それ自体はわるくないです。
でも、なぜ彼女が食べられないのかというアセスメントができていなかったら、それは彼女の努力によって教室に戻されるだけで、支援になっていないんじゃないでしょうか。
根本的な解決になっていないんじゃないでしょうか。
なぜ食べられないのか。食感なのか匂いなのか温度なのか。それをフォローするのが支援なのに、いまの学校では、残念ながら、そうなっていない。
がんばることは悪いことじゃないけれども、がんばりすぎて疲れてしまったり、いやなってしまったりで、それが不登校につながってしまう。
こういう(発達障害の特性のある)子どもたちは、多数派とちがう文化、表現方法、発達プロセスをもつ可能性があるかもしれない、ということを、知っておいてほしいと思います。
子どもたちは、自分では気づけない。
わたしは動作が遅いのに弁が立ち、言い返すのに勉強はできないという、一番イヤなタイプの子どもでした。
でも、イヤなやつだろうが必死でした。
なぜ自分ができないか分かりませんでした。
学校は、わけの分からない場所でした。
学級会で、1対39でも、自分が正しいと思えば、自分の意見を曲げることができませんでした。
いろいろ決めなくてはいけないところを、みなはどんどんてきとうに決めていくんですが、私はあることにこだわって、「待った」をかけて、止めてしまう。
翌朝、学校に行ったら、だれも口をきいてくれなくて、悲しい思いをしたという経験もあります。
行事そのものは楽しみなのに、その日の給食にマカロニサラダが出るか、それに苦手なきゅうりが入っていないか、ということばかりに気を取られ、その日に自分がなにを分担するのか、まったく分からなくなってしまい、参加できなかったこともありました。
そんな思い出がたくさんあります。
どうも、自分と人とで、ひっかかるところが全然ちがうんです。
木を見て森を見ず
(ここで認知の実験。参加者の3人に、熊の絵を描いてもらう。
ホワイトボードに、デフォルメされた「くまさん」3つ。)
認知科学の本で、あるおもしろい記述を読みました。重度のお子さんが、馬を描くとき、ひずめばかり描いていた。
それが、言葉を獲得して、お母さんとコミュニケーションできるようになったら、デフォルメされたふつうの馬の絵を描くようになったそうです。
言いたいのは、3人が描いてくださった熊は、熊ではないんです。
でも私達は、ものごとを記号化しておぼえているので、熊と言われると、熊ってこういうものだよね、と情報を変換して、こういう「くま」を描く。
で、みんながこれを熊と言ってくれるから、それでコミュニケーションがなりたっている。
でも、熊と言われて、牙ばかり描いていたら、その人とコミュニケーションを取るのはむずかしいですよね。
それに気づいてから、わたしは、情報を共有するために、ものごとをおおざっぱに見たり、「みなの視点から」見るようになりました。いまでも不十分かもしれませんが、少しは、できるようになりました。
発達障害のある人は、このように、認知構造や感覚機能がちがいます。
ハンディキャップが生まれやすいということなんです。
でも、親や先生、もちろん本人も、状態を把握できていない。
その子が何をみていてどう感じていてどういう世界で生きているか、というのが分からない。
これが一番悲劇かなと思います。
社会性があるほうがいいという価値観は正しいのか
発達障害の子も、親や先生をよろこばせたいです。
ある方は、子どものころからとても努力してきたけれども、就労で失敗して引きこもってしまいました。
「ずっと仮面をかぶって生きてきた。本当の自分を出すと嫌われてしまう。ふつうの人の振りをして生きていかなきゃいけないと思っていた」、と。
その結果、社会に受け入れらなかったときの挫折感は、とてもおおきなものです。
残念ながら、現状では、学校現場はもちろん、不登校支援の現場でも、発達障害に対応するノウハウが生かされているとは言えません。
さきほどの給食の例とおなじように、本人に努力させて周りの大人が満足する、学校にもどして良しとするような方法が横行しています。
そのため、不登校から長期の引きこもりになるリスクが高いです。
わたしは、マジョリティの文化にもどそうという支援は危険だと思ってます。
あたりまえのことをできるようにしようという支援は、かならずしも成功しないんです。
わたしがお話をするときに必ず紹介する文章があります。
「彼らの認知構造は変わらないという前提で、多数派の認知の仕方を、知識として、学んでもらう。
それを学んでほしいのは彼らが間違っているからではありません。
そのほうがおたがいにとって不都合が少ないからです。」
吉田友子『その子らしさを生かす子育て』中央法規出版 2003
発達障害の人たちは、自分を使いこなせずに困っていることが多いです。
私たちは、自分を使いこなし、自分のスタンスやペースで社会にコミットすることを「ゆるサバイバル」と呼んで、目標としています。
今日聞いていただいて、ちょっとでも気づいたことがあった方は、その子がどういうことに困っているのかということをていねいに見てあげてサポートしてあげてほしいし、その子が自分を使いこなせることのできるような、そういう支援をしてほしいと思います。
どうもありがとうございました。
(「大空は、安心できる場所だから。」
映画の木村校長のセリフを、ミオさんも取りあげていらっしゃいました。
リアルなエピソードや特性の説明は、本人同様、とても魅力的で、説得力がありました。
今後もよろしくおねがいいたします。)